roppongi triangle
2007年2月4日国立新美術館⇒にしすがも創造舎⇒森美術館を
一日で周る。
さすがに後半の森美術館ではいいものがたくさんあったが、
バテてしまった。体力が必要。
新国立は1月末にオープン。
政策研究大学院の脇、ヒルズとミッドタウンがちょうど良く
見える。
青山墓地方向も何もなく、気持ちのいい立地。
昔は陸軍の司令部があったところのようだが。
総花的な展示の中で
ひとつあげるとすれば
榊原機械の
「ランドウォーカー」
ロボットが動く。
レイバーやタチコマに心動かされる私にはたまらない代物。
お上ではなく、民間からこんなモノがでてくるのが
日本なんだろう。
東京国際芸術祭の一つである、
ドラマリーディング@西巣鴨に行って来る。
「When something wonderful ends」
という戯曲を朗読+で。
三人のアクターがそれぞれのパートを交互に
読んでいくという形式。
アメリカでは作者が独りで読んでいたそうだ。
それでは日本語に翻訳すると二時間以上かかり演者がしんどいということで演出を修正したそうで。
こういう翻訳の問題というのはどうしたらいいのか。
日本語にできるもの、できないもの。
翻訳の現場というのはかなりせめぎあっているはず。
この辺を開示していくことが、ありものをそのまま受け入れるのではなく、より多様な解釈のために必要となってくるのだろう。
9.11後のアメリカを痛烈に皮肉った戯曲。
バービー人形と私と母と弟とアメリカと石油とユダヤ人
の複雑に絡み合った関係の中で起こる自家中毒。
「大人にならなきゃいけない!」と叫ぶところで
終わるが、アメリカがまだ大人でないとしたら
属国日本はどうなるんだ。
ユダヤ人という視座からこれを書くことの意義など、
もっと深く、ポストリーディングの議論で質問できたかもしれないなーと思いつつ。
三月にはチュニジア人作家、レバノン人作家の劇もあるそうで、
しびれる演目ばかりである。
しっかりマネジメントしているものだ。
こういう「お芝居」とでもいうのか、そういうものに参加するのは生まれて始めてだったのだが、けっこうすんなりいけた。 今までは編集されてサニタライズされた表現ばかりに接してきた。テレビや新聞、雑誌、書籍など。
たまにはこういう何がおきるかわからない、ライブの表現に触れてみるのも悪くないと感じた。
個人的に社会に対するメッセージを織り込んだ表現が好きなのだが、
森美術館は、いいキュレーターを抱えていらっしゃるなあと。
「笑い」がテーマで
日本の古来からの笑いと現代アートの笑いをそれぞれ集めた展示だが、
会田誠がビンラディンに扮して日本酒を呑みながら
へべれけになって「探さないでください」
というビデオインスタレーションはかなり・・・。
他にも韓国人アーティストの
着ぐるみに人が入っているかのように見せるインスタレーションで「私はキムジョンイルです。日給5ドルで今日は森美術館で着ぐるみに入って仕事をしています。邪魔しないでください・・・」という記述が。
なかなか。
何はともあれ、roppongiは
三月末にサントリー美術館がミッドタウンにオープンするし、
森、新国立、サントリーとすべて徒歩でいける
エリアができることになる。
デートににいいんではないだろうか。
当然、締めは森美術館ということで。
新国立美術館内のポールヴォキューズのフレンチが行列できているなど、今後の美術館の運営って単に展示してればOKって
わけではなくなってきている。
にしすがものマネジメントもなかなか。
プロデューサーがディスカッションの司会をつとめていたし。
美人の女性だったし(どーでもいいけど)
森もキュレータートークなどは当然のごとくあるし。
ここのキュレータも女性だったな。(どーでもいいけど)
片手間ではなく、プロが運営している。
なんか甘いよなあ、既存のメディアさんたちはと思いながら
お前もな、独りつっこみをいれ
自家中毒。
やっぱり最近の20代後半から30代前半の女性は優秀だ。
これが40代のマネジメント層にぼこっと
加わったとき、日本は変わるかもしれない。
男性は駆逐されるだろうし、されてしまったほうがいい。
一日で周る。
さすがに後半の森美術館ではいいものがたくさんあったが、
バテてしまった。体力が必要。
新国立は1月末にオープン。
政策研究大学院の脇、ヒルズとミッドタウンがちょうど良く
見える。
青山墓地方向も何もなく、気持ちのいい立地。
昔は陸軍の司令部があったところのようだが。
総花的な展示の中で
ひとつあげるとすれば
榊原機械の
「ランドウォーカー」
ロボットが動く。
レイバーやタチコマに心動かされる私にはたまらない代物。
お上ではなく、民間からこんなモノがでてくるのが
日本なんだろう。
東京国際芸術祭の一つである、
ドラマリーディング@西巣鴨に行って来る。
「When something wonderful ends」
という戯曲を朗読+で。
三人のアクターがそれぞれのパートを交互に
読んでいくという形式。
アメリカでは作者が独りで読んでいたそうだ。
それでは日本語に翻訳すると二時間以上かかり演者がしんどいということで演出を修正したそうで。
こういう翻訳の問題というのはどうしたらいいのか。
日本語にできるもの、できないもの。
翻訳の現場というのはかなりせめぎあっているはず。
この辺を開示していくことが、ありものをそのまま受け入れるのではなく、より多様な解釈のために必要となってくるのだろう。
9.11後のアメリカを痛烈に皮肉った戯曲。
バービー人形と私と母と弟とアメリカと石油とユダヤ人
の複雑に絡み合った関係の中で起こる自家中毒。
「大人にならなきゃいけない!」と叫ぶところで
終わるが、アメリカがまだ大人でないとしたら
属国日本はどうなるんだ。
ユダヤ人という視座からこれを書くことの意義など、
もっと深く、ポストリーディングの議論で質問できたかもしれないなーと思いつつ。
三月にはチュニジア人作家、レバノン人作家の劇もあるそうで、
しびれる演目ばかりである。
しっかりマネジメントしているものだ。
こういう「お芝居」とでもいうのか、そういうものに参加するのは生まれて始めてだったのだが、けっこうすんなりいけた。 今までは編集されてサニタライズされた表現ばかりに接してきた。テレビや新聞、雑誌、書籍など。
たまにはこういう何がおきるかわからない、ライブの表現に触れてみるのも悪くないと感じた。
個人的に社会に対するメッセージを織り込んだ表現が好きなのだが、
森美術館は、いいキュレーターを抱えていらっしゃるなあと。
「笑い」がテーマで
日本の古来からの笑いと現代アートの笑いをそれぞれ集めた展示だが、
会田誠がビンラディンに扮して日本酒を呑みながら
へべれけになって「探さないでください」
というビデオインスタレーションはかなり・・・。
他にも韓国人アーティストの
着ぐるみに人が入っているかのように見せるインスタレーションで「私はキムジョンイルです。日給5ドルで今日は森美術館で着ぐるみに入って仕事をしています。邪魔しないでください・・・」という記述が。
なかなか。
何はともあれ、roppongiは
三月末にサントリー美術館がミッドタウンにオープンするし、
森、新国立、サントリーとすべて徒歩でいける
エリアができることになる。
デートににいいんではないだろうか。
当然、締めは森美術館ということで。
新国立美術館内のポールヴォキューズのフレンチが行列できているなど、今後の美術館の運営って単に展示してればOKって
わけではなくなってきている。
にしすがものマネジメントもなかなか。
プロデューサーがディスカッションの司会をつとめていたし。
美人の女性だったし(どーでもいいけど)
森もキュレータートークなどは当然のごとくあるし。
ここのキュレータも女性だったな。(どーでもいいけど)
片手間ではなく、プロが運営している。
なんか甘いよなあ、既存のメディアさんたちはと思いながら
お前もな、独りつっこみをいれ
自家中毒。
やっぱり最近の20代後半から30代前半の女性は優秀だ。
これが40代のマネジメント層にぼこっと
加わったとき、日本は変わるかもしれない。
男性は駆逐されるだろうし、されてしまったほうがいい。
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