ヴァイタリティ。
2003年1月20日が当社の最も求める
「コンピテンシー」
競争適性とでも、訳すのか。
いきなり、話は変わって、
私は大阪では「外部人」だ。
おそらく、死ぬまで、よそものだ。
わざと、そういう気分が味わいたいから。
まったくの異文化のなか、
関西で暮らし始めた私は案の定
その文化になじめなかった。
しかし、生き残らなければならない。
なぜか、歴史をみればわかるとおり、
今調子のいいものは後の調子の悪いもの
なのだ。そういうリズムがあるかぎり、
どこでふんばらなければならないかというと、
結局「気持ち」なのだ。
ふんばればいずれ事態は好転する。
さて、異文化にとけこむには、一芸であっといわせなければならない。
私は「山」を選んだ。
3年こもって、野におりたときには、
自分に自信がいくぶんかついていた。
外でうろちょろしてあの実、この実と
かじってきた私に定住者たちはその話を聞きたがり、実体以上に畏怖してくれる。
南米アマゾンで西洋医学のドクターが「呪術師」として尊敬されるのと同じ。関野の戦略は正しい。
というわけで、そんなのしってかしらずか、
最近も禁じ手「欝」をやってしまった。
誰もが行きたがらない世界。隠したがる世界。
実は、大学時代、関東の放送局で働く友人に
「心と体どっちが傷つくのがいやか?」
と聞かれすかさず「体」と答えたとき、
彼の当惑した顔があった。
あれは何だろうと考えるようになって、奥深い
精神世界の闇に入った。思えば、そのときが旅の始まりなのかもしれない。会社や社会の押し付けるリズムとは違う、私固有のリズムで精神の旅に入った。結局、個のわがままが社会ひいては家族、友人、恋人を含めすべてを巻き込んだ。
で、結局また戻ってきた。変に意地はらず、薬という保険をかけていたのがよかったのかもしれない。
一つわかったのは、社会が強制するリズムは個の人間には必ずしもぴったりフィットというわけにはいかない、ということ。
旅にでてしまったら、残された者はじっと待つしかない。
はっきり言えば精神世界はものすごく深く、
他人の深淵など、のぞいてはならないということだ。のぞくだけに留めておくほうがいい。
同情など、するものではない。
ただ、外側にあたたかい毛布をかけてあげるのが精一杯の作業だと思う。
身体と精神のバランスが崩れていたのだと気づく。自分で崩れたのではない。他者の介在と
自分の相互作用だ。
さて、今回の旅でどんな実を僕はもらってきたのかは知らない。
それは定住者たちの見方で決まるはずだ。
いらなければ、リンチされて殺されるし、うまくいけば、その実で当分生きていける。
私は農耕的と言われればそうかもな、とも思うし、
案外狩猟的でもある一面が私にはあるのだな、と今日この日記を書いていて気づかされる。
変に自分を定義づけないことだ。現実は流転
していくのに、いずれその作業のむなしさに疲れ果ててしまう。
私は頭が悪くなりたい。
「芸は身を助く」というが
特によそ者には必須なことだ。
私の「芸」はなんなのか?
それを見つける20代なのだろう。
だから、バイタリティと好奇心は大切なのだ。
その土台として。
飛田でも行ってくるか。
「コンピテンシー」
競争適性とでも、訳すのか。
いきなり、話は変わって、
私は大阪では「外部人」だ。
おそらく、死ぬまで、よそものだ。
わざと、そういう気分が味わいたいから。
まったくの異文化のなか、
関西で暮らし始めた私は案の定
その文化になじめなかった。
しかし、生き残らなければならない。
なぜか、歴史をみればわかるとおり、
今調子のいいものは後の調子の悪いもの
なのだ。そういうリズムがあるかぎり、
どこでふんばらなければならないかというと、
結局「気持ち」なのだ。
ふんばればいずれ事態は好転する。
さて、異文化にとけこむには、一芸であっといわせなければならない。
私は「山」を選んだ。
3年こもって、野におりたときには、
自分に自信がいくぶんかついていた。
外でうろちょろしてあの実、この実と
かじってきた私に定住者たちはその話を聞きたがり、実体以上に畏怖してくれる。
南米アマゾンで西洋医学のドクターが「呪術師」として尊敬されるのと同じ。関野の戦略は正しい。
というわけで、そんなのしってかしらずか、
最近も禁じ手「欝」をやってしまった。
誰もが行きたがらない世界。隠したがる世界。
実は、大学時代、関東の放送局で働く友人に
「心と体どっちが傷つくのがいやか?」
と聞かれすかさず「体」と答えたとき、
彼の当惑した顔があった。
あれは何だろうと考えるようになって、奥深い
精神世界の闇に入った。思えば、そのときが旅の始まりなのかもしれない。会社や社会の押し付けるリズムとは違う、私固有のリズムで精神の旅に入った。結局、個のわがままが社会ひいては家族、友人、恋人を含めすべてを巻き込んだ。
で、結局また戻ってきた。変に意地はらず、薬という保険をかけていたのがよかったのかもしれない。
一つわかったのは、社会が強制するリズムは個の人間には必ずしもぴったりフィットというわけにはいかない、ということ。
旅にでてしまったら、残された者はじっと待つしかない。
はっきり言えば精神世界はものすごく深く、
他人の深淵など、のぞいてはならないということだ。のぞくだけに留めておくほうがいい。
同情など、するものではない。
ただ、外側にあたたかい毛布をかけてあげるのが精一杯の作業だと思う。
身体と精神のバランスが崩れていたのだと気づく。自分で崩れたのではない。他者の介在と
自分の相互作用だ。
さて、今回の旅でどんな実を僕はもらってきたのかは知らない。
それは定住者たちの見方で決まるはずだ。
いらなければ、リンチされて殺されるし、うまくいけば、その実で当分生きていける。
私は農耕的と言われればそうかもな、とも思うし、
案外狩猟的でもある一面が私にはあるのだな、と今日この日記を書いていて気づかされる。
変に自分を定義づけないことだ。現実は流転
していくのに、いずれその作業のむなしさに疲れ果ててしまう。
私は頭が悪くなりたい。
「芸は身を助く」というが
特によそ者には必須なことだ。
私の「芸」はなんなのか?
それを見つける20代なのだろう。
だから、バイタリティと好奇心は大切なのだ。
その土台として。
飛田でも行ってくるか。
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