月曜日の日記
2002年2月11日英語を第二外国語にすべきだと、
今日、四条の「Excelzior cafe」で
実感。
日本語ってさ、「いいえ」とか「いや」
とか「はい」とか「うん」とか「そうだね」
とか、肯定とか否定が極度にあいまいなのだ。
俺自身そんな言語の世界に生きてきて、
困ったこともあれば、得したこともある。
「うー」とか「むー」とか言っているうちに
かわいい女の子を他の声だけでかい奴
にとられてしまった高校時代。
(確かに俺の深みを結局理解できなかった彼女のおつむにも問題がある)
得したことと言えば、そんな玉虫色の回答ばかりしているうちに
自然消滅させたこともある。
(短期契約の女性とかね!)
英語だと話が早い。特にnon-nativeの場合、
少ないボキャで考えなければならないわけだから、無駄な語彙を抱え込んでいる母語より
よっぽど即断即決できる。
極端な話、「yes,or no」でどんどんコミュニケーションが出来る。
英語というフィルターを通すことによって、
もっとも大切な表現だけが残る。
結局それぞれ個人の価値判断が問われてしまうのだろう。
ただ、忘れてはならないのは、やはり、日本語が母語であるということだ。
これどうしようもない俺とこの風土とを結ぶ絆だと思う。
日本の現在の、政治、経済体制はかなりおかしいが、「つわものどもがゆめのあと」
のように、今の体制が崩壊しても、山河は当分残り、そして、日本語を話す人間も残るだろう。
とても美しい響きをもった、日本の和歌、俳句、詩、これらが存在している限り、やっぱり、日本はいいなあと思う。別に国粋主義者ではないが、私は日本で生まれたことに誇りを
持っている。
※ ※ ※
シングルは楽しい。いろいろとね。
しかも休職中でありながら、
飄々としているさまは自分でもすごいと思う。
この余裕はなんなんだろうか。
余裕を持ちつつ、このメリットを生かすべく、
次への跳躍を目指して、毎日考えていこう。
ヘドニスト的な思考停止は俺の望むところではない。
新しい表現、新しい思考スタイル、もっと、俺を感動させ、行動をおこさせる新しい刺激を求めて、俺は、進む。
今日、四条の「Excelzior cafe」で
実感。
日本語ってさ、「いいえ」とか「いや」
とか「はい」とか「うん」とか「そうだね」
とか、肯定とか否定が極度にあいまいなのだ。
俺自身そんな言語の世界に生きてきて、
困ったこともあれば、得したこともある。
「うー」とか「むー」とか言っているうちに
かわいい女の子を他の声だけでかい奴
にとられてしまった高校時代。
(確かに俺の深みを結局理解できなかった彼女のおつむにも問題がある)
得したことと言えば、そんな玉虫色の回答ばかりしているうちに
自然消滅させたこともある。
(短期契約の女性とかね!)
英語だと話が早い。特にnon-nativeの場合、
少ないボキャで考えなければならないわけだから、無駄な語彙を抱え込んでいる母語より
よっぽど即断即決できる。
極端な話、「yes,or no」でどんどんコミュニケーションが出来る。
英語というフィルターを通すことによって、
もっとも大切な表現だけが残る。
結局それぞれ個人の価値判断が問われてしまうのだろう。
ただ、忘れてはならないのは、やはり、日本語が母語であるということだ。
これどうしようもない俺とこの風土とを結ぶ絆だと思う。
日本の現在の、政治、経済体制はかなりおかしいが、「つわものどもがゆめのあと」
のように、今の体制が崩壊しても、山河は当分残り、そして、日本語を話す人間も残るだろう。
とても美しい響きをもった、日本の和歌、俳句、詩、これらが存在している限り、やっぱり、日本はいいなあと思う。別に国粋主義者ではないが、私は日本で生まれたことに誇りを
持っている。
※ ※ ※
シングルは楽しい。いろいろとね。
しかも休職中でありながら、
飄々としているさまは自分でもすごいと思う。
この余裕はなんなんだろうか。
余裕を持ちつつ、このメリットを生かすべく、
次への跳躍を目指して、毎日考えていこう。
ヘドニスト的な思考停止は俺の望むところではない。
新しい表現、新しい思考スタイル、もっと、俺を感動させ、行動をおこさせる新しい刺激を求めて、俺は、進む。
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